呼ぶにあたって



「ねえ、アニィ」
呼びかけつつ、リィヤードはさり気なく婚約者の手を取ろうとした。
「何ですか?」
にっこりと笑みつつ、ピアニィは素早く背後に手を隠した。
最近リィヤードは、ことあるごとにピアニィの手に唇を落とすのだ。 それが何だか気恥ずかしくて、ピアニィは彼に手を取られないように用心しているのだった。

残念、というふうに肩をすくめつつ、リィヤードは苦笑した。
「君に頼みがあるんだ」
「一晩中陛下の部屋で過ごす、というのは却下ですよ」
ピアニィは笑いを含んだ声で、彼のプロポーズを揶揄した。リィヤードも負けずに微笑み返す。
「それはいいんだ。結婚した後は、嫌でも毎日そうさせてもらうから」
その言葉に、ピアニィは目のふちを赤くして、婚約者をにらみつけた。
「じゃあ、頼みっていうのは何なの? 兄様」
「その、『兄様』って呼び方、やめてくれないか?」
婚約者からの予想外な要求に、ピアニィはきょとんとした。
「なぜ?」
「なぜ、って」
リィヤードは苦笑する。
「妻が夫のことを兄呼ばわりするなんて、おかしいだろう?」

「それなら一体、何て呼べばいいの?」
「名前で呼んでくれればいい。リィヤード、と」
「『リィヤード』?」
ピアニィは首をかしげつつ繰り返した。それを聞いて、リィヤードは少しばかり感動を覚える。彼女が彼の名を口にするのを聞いたのは、もしかするとこれがはじめてかもしれない。・・いや、先王と区別するために『リィヤード陛下』という呼び方をされたことはあったが、呼び捨てとそうでないのとは、やはり重みが違う気がする。

そんな調子で喜びに浸る婚約者の前で、ピアニィは少しうつむいて、リィヤード、リィヤード、とごく小さな声で繰り返していた。それから、困ったように顔を上げる。
「ちょっと呼びにくいみたい。どうしても、そう呼ばなくちゃ駄目?」
不安そうな上目遣いが、ものすごく可愛い。その表情にほだされそうになりながらも、リィヤードはすんでのところで当初の目的を思い出した。
「やっぱり、兄妹じゃないんだから」
呼び方などどうでもいいといえばどうでもいいのだが・・・どうにも、調子が出ないというか・・・結局のところ、名前で呼んでもらったほうが恋人っぽいのではないかという、単なるイメージの問題なのだが。

リィヤードの発言を受け、ひとしきり悩んだピアニィの脳裏に、ふとある案がひらめいた。

「わかった。じゃあ、こうしましょう。私は兄様のことを名前で呼ぶから、兄様はシリスのことを『兄様』って呼んで」



「・・・・・・・は?」

リィヤードは聞き違いかと思って――そうであることを願って、ピアニィの顔を見つめた。
しかし、にこにことこちらを見返す彼女の表情から、先ほどの提案が冗談であるとは考えにくかった。
「兄様がシリスのことを『兄様』って呼んでいれば、私もだんだん違和感を持つと思うの。それに、兄様と私が結婚したら、兄様にとってシリスは義理の兄弟になるでしょう? だから、『兄様』って呼んでもおかしくないじゃない」
「いや、でも、アニィ、それは・・・」
シリスに「兄様」と呼びかける自分・・・想像もしたくない。周りの人に引かれること請け合いだし、第一、自分自身が気持ち悪くて仕方ないだろう。
「なあに? 駄目なの?」
リィヤードがそんな不気味な想像に冷や汗をたらしていることも知らず、ピアニィは無邪気に顔をのぞき込んでくる。
「せっかく『リィヤード』って呼べるようになる方法、考えたのに」
「・・・・」

彼女の口から自分の名前が出たことに、再び軽い感動を覚えながら、リィヤードは考えた。
少しの間なら・・・本当に、ほんの短い間なら、シリスのことを「兄様」と呼んでもいいかもしれない。そう、ピアニィが「リィヤード」という呼び名に慣れるまでならば。
ちょっと我慢すれば、それから後は毎日、この愛らしい唇が自分の名前をつむいでくれるのだ――その代価として、幾ばくかの忍耐と努力を払うのは、そんなに難しいことではない気がしてくる。それほどに、このときのリィヤードにとって、名前を呼ばれるということが素晴らしく魅力的に感じられた。
さきほどまであんなに嫌だったのに、人の気持ちとは不思議なものである。

リィヤードは、腹をくくって口を開く。
「わかったよ、アニィ――」




「やめてください、気持ち悪い」

しかしリィヤードの決意は、背後から飛んできた声にすぱっと切り捨てられた。振り返ると、いつの間に部屋に入ってきたのか、すぐ後ろでシリスが思い切り顔をしかめている。
「何の話か分かりませんが、変なことに巻き込まれるのは御免です」
本当にやめてくださいよ、と念を押してから、この件は終わったとばかりに、王佐はさっさと仕事の話を始める。どうやら、彼はリィヤードを呼びに来たらしい。

シリスについて部屋をあとにする前に、リィヤードは瞳に懇願をこめて振り返った。その視線を受けたピアニィは、おぼろに意味を察して、心持ち首を傾げる。
「本人の許可を得られないのですから、仕方がありませんね」

つまり。
今回の話は、なかったことにされるらしい。

「・・・・・」
はあ、とため息をつく婚約者に向けて、ピアニィはその愛らしい唇で言葉をつむいだ。
「お仕事頑張ってくださいね、兄様」









   
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