食行動異常



わずかに開いた窓から、執務室に爽やかな風が流れ込む。
窓を背にして腰掛けていた青年は、かすかに顔をしかめた。
風の悪戯で床に落ちた書類を、彼の補佐官が丁寧に拾い上げる。

『リィヤード・ジル・フォンタデール』
『リィヤード・ジル・フォンタデール』
『リィヤード・ジル』・・・・・

青年は黙々と文字を目で追い、署名して、仕上げに王印を押す。
『リィヤード・ジル・フォンタデール』というのは、彼――フォンタデール国の現国王の正式名である。 たいていの者が「陛下」という呼称を使うため、この名で呼ばれることはめったにない。それでも彼が自分の名を忘れずにいられるのは、この地道な書類処理のおかげかもしれなかった。

また風が吹いた。先程おもしをのせたため紙は飛ばされなかったが、王の少し伸びた髪が、さらさらと顔に落ちかかった。射し込む陽を受けて、細い金糸がかすかに光を散らす。それをうるさそうにかき上げつつも、なお視線は紙上にそそがれたままだ。

紙をめくる音、ペンが走る音、押印の音。
風は優しく、音を立てずに入り込む。

ふと沈黙が破られた。
「陛下」
「何だ」
王佐の呼びかけに、そっけない答えが返る。
「そろそろ昼食の時刻です」
「そうだな」
「・・・・」

紙の音、ペンの音、印の音。

王佐はもう一度呼びかけた。
「陛下」
「何だ」
「昼食の時刻です。昼食は、どのような立場の人間にとっても不可欠なものです」
「そうだな」
王は相変わらず書類とにらめっこを続けたまま、淡々と返す。

「陛下!」
ついにシリスは語調を強めた。リィヤードは、その声にはっと顔を上げる。
「昼食の時刻です!」
三度目の科白に、王は一瞬黙り込む。それから、申し訳なさそうに微笑んだ。
「ああ、すまない。つい夢中になってしまって・・」
王佐はほっとしたように表情を緩めた。が、王は
「昼休憩の許可を出し忘れていたな。行っていいぞ、シリス」
と言うと、再び書類に目を戻した。
「・・・・」
シリスは絶句した。
王は、王佐に休憩を要求されたものと勘違いしていた。自分が昼食をとるという発想は、微塵も浮かばないらしい。



 *****



「あの、今日は、陛下は・・・」
黙って首を振った王佐を見て、料理人見習いの少年は落胆したように肩を落とした。
「今日のサラダは僕が作ったのに・・・」
彼は、最近やっと包丁を握らせてもらえるようになったばかりだ。それゆえ、まだ王に自作の料理を食べてもらったことがないのである。そんな少年を慰めるように、シリスは言った。
「昨日のスープ、美味しかったですよ」
「ありがとうございます」
少年は弱々しい笑みを浮かべた。ちなみに、昨日昼食のために心をこめて作ったスープも、王の口には入れてもらえなかった。
料理人見習いは、ふと心配そうな表情になる。
「陛下は大丈夫なんでしょうか?昼食抜くの、今日で3日目ですけど」
その指摘に、王佐は苦く笑った。
「まぁ、明日は妹が来る予定ですから。何とかなるでしょう」
「えっ、ピアニィさん、明日いらっしゃるんですか!?」
少年は、途端に目を輝かせ始める。
「じゃあ、明日は必ず陛下も昼食をおとりになりますね!」
明日こそは自分の料理を食べてもらえる、と俄然張り切り出した料理人見習いは、失礼します!と明るく挨拶すると、生き生きとした足取りで調理場へと去っていった。


一人回廊に残されたシリスは、ため息をついた。
本当に、明日こそは昼食をとっていただかなくては。
そのためには、基本的欲求をもねじ伏せるほどの王の仕事熱を、一瞬で冷ます秘策を連れてくる必要があった。









   
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