貴方のために咲く花



「よかった、まだ日の出前ね」
朝露を含み湿った芝生に下り立ちながら、東の方向を見はるかする。
日の出間際の時間帯は、薄暗いが歩くには充分だ。ピアニィは両腕を軽く伸ばし、早朝の冷たい空気を吸い込んだ。

「アニィ。君の来たかったところって、庭園なのか?」
後から出てきたリィヤードは、人気のない庭園に首をめぐらす。
「ええ、そうよ。兄様の部屋でもそう言ったじゃない」
「誰もいないみたいだけど・・・」
「だって、まだ夜明け前よ? 起きてる私たちの方が珍しいくらいなのに」
「いや、そうじゃなくて」
言っていいものかどうか、判断がつかず口ごもってしまう。ピアニィは不思議そうに首をかしげる。目線で続きをうながされ、リィヤードはやっと口を開いた。
「その、サイラス殿下はいらっしゃらないのかな?」


二人が庭園に来たのは、ピアニィの「お願い」をきくためだった。それを叶えなければ、リィヤードの望み――すなわち、ピアニィとの結婚――も絶たれることになる。要するに、二人の間の交換条件なのだ。
そして、リィヤードは「お願い」の内容をよく知らないまま、ここまで連れてこられたのだった。

ピアニィがサイラスと会う約束をしているのだと思い込んでいたからこそ、昨夜はあんな強引な引き止め方をしたのだ。それなのに、サイラスは未だ現れない。リィヤードには、それが不思議でたまらなかった。
しかしピアニィは、たった今気が付いたというように王宮の方を見やった。
「そうね。散歩にはまだ早い時間だから・・・でも、いいえ、今朝はいらっしゃらないかも」
「え? どうして?」
ピアニィはふと向き直り、リィヤードをじっと見つめた。それからふわっと微笑む。
「今日は特別な日だから」
そう告げるピアニィの顔があまりに幸せそうだったので、リィヤードは言葉の意味を確認しそこなった。
「行きましょう、兄様」
くるりと背を向け、ピアニィは先に立って歩き出した。向かう先は、リィヤードにもすでに分かっている。回廊に面した、低木のところ――ピアニィとサイラスが、楽しそうに話をしていた場所だ。そのときリィヤードは、少し離れたところから二人の様子を見ていた。
(あのときも、ピアニィは笑っていたな――)
昨夜たしかに、ピアニィはリィヤードの気持ちを受け入れてくれた。それなのに、 サイラスのことを考えると、気持ちが少し重たくなる。

「兄様、早く。日が昇ってしまうわ」
軽く腕をつまかれ、リィヤードは回想から引き戻された。視線を向けると、ピアニィの両手が、リィヤードの左腕をとらえていた。
「ああ、うん。ごめん」
どこかぼんやりしたまま、リィヤードは謝罪する。ピアニィはじれたように、つかんだ腕を引っぱった。
「早く行きましょう」
そう言って、腕を引きながら横向きに歩き出す。リィヤードは、何となくそうしたいような気がして、一度ピアニィの手を解かせてから改めて右腕を引き寄せ、自身の左腕と組みなおした。ピアニィは驚いたように絡まる腕を見たが、抗議することもなくそのまま並んで歩き始めた。
手をつないで歩いたことはあったけれど、これほど近くに寄り添って歩いたのは、二人にとってはじめてのことだった。



「ほら、兄様、あの木」
ピアニィが、低木の一つを指差す。彼女が毎朝観察していた、例のつぼみのある木だ。
「これが今日、咲くかもしれないって・・・」
言いながら、いつもの枝に視線を向けると――すでに花びらがほどけている。
「あっ、もう咲いてるわ!」
ピアニィは、組んだ腕もそのままに、大急ぎで枝先をのぞきこんだ。腕の動きにひきずられるまま木に近付き、リィヤードも同じようにのぞきこむ。
見ると、つぼみは見事に花となっていた。まだ満開とは言えないが、だいぶ花びらが開いている。


「・・・・咲いた」
ピアニィは、噛み締めるようにつぶやいた。それから、少し高い位置にあるリィヤードの顔を見上げて微笑む。
「この花が咲いたら、絶対兄様に見せたかったの。昨日の夕方に見たときはまだ咲いていなかったから、きっと私たちが一番だわ」
「・・もしかして、『お願い』というのはこれ?」
「そうよ」
これを聞いて、リィヤードは、内心胸をなで下ろした。本当に無理難題だったらどうしようかと、密かに案じていたのだ。

一方、隣のピアニィも、別の意味で安堵の笑みを浮かべる。
「本当は、先に一人で、咲いたかどうか見に来るつもりだったのだけれど・・・ちゃんと今日咲いてくれてよかった」
心の中でサイラスに謝意を送るピアニィを、リィヤードは驚いて見やった。
「え、一人で? 今朝は一人で花を見に来るつもりだったの?」
「そうよ」
「まさか、昨日『用がある』と言っていたのは、それなのか?」
「ええ、だって、できれば咲くところを見たかったから、日の出前にと思って。あのまま朝まで兄様の部屋にいたら、間に合わなかったでしょう?・・・あの、兄様?」
「・・・そうか、一人で、花を見に・・・・」
サイラスは関係なかったのだ。
自分の勘違いを突きつけられ、リィヤードは羞恥と安堵に襲われた。しかしおそらく、その勘違いがなれば、求婚などとても無理だったろう。何だか 急に笑いがこみ上げてくる。
「兄様ってば。どうかなさったの?」
「ああ、いや、なんでもないよ」

笑いながら否定するリィヤードに首をかしげつつも、ピアニィは補足する。
「昨日の夜は王宮に泊まって、朝一番にここへ来るつもりだったの。咲いたかどうか確認してから、兄様に来てもらおうと思って」
ピアニィの計画に、リィヤードはおや、という顔をした。
「王宮に泊まる? それはまた、ずいぶんとこの花に思い入れがあるんだね」
今日咲かなかったらどうするつもりだったのだろう。 いつ咲くかわからない花のために、何日も泊り込むつもりだったのか。いや、現にこうして今日咲いたのだから、どちらにせよそんな必要はなかったわけだが。それにしても、ずいぶんとタイミングよく開花したものだ――
サイラスの開花予想を知らないリィヤードは、不思議に思って首をかしげる。

思い入れ、という部分で、ピアニィは顔を赤らめた。わずかに口ごもりながら答える。
「だって、これは・・・兄様のための花なんだもの」
「私のため?」
意外な言葉に虚をつかれ、リィヤードは目を瞬いた。
「どうしてこの花が、私のためなんだ?」
その質問に、ピアニィは眉を寄せて悩む。
「ええと、だって、兄様に見て欲しくて咲いた花なのよ」
「見て欲しい、って・・・」
リィヤードにはよく分からない理屈だ。
ピアニィは決め付けるように言っているが、花は花なりの事情があって咲いたのだろうし、たとえ花に意思があったとしても、ピアニィにそれが分かろうはずもないのに――などと、妙に理屈っぽいことを考えながら、再び首をかしげる。

ピアニィはもどかしそうに言い切った。
「とにかく、この花が咲いたのは、兄様のためなの!」
きっ、と見上げてくる少女に、リィヤードは気圧された。まっすぐな青い瞳が、挑むようにきらきら光る。この瞳にだったら、いくら負けてもかまわない。そう思わせるほど惹きつけられた。
そして、唐突に理解する。
きっと、花が今日この朝に咲いたのも、彼女がそう願ったからだ。
(花すらも、アニィのわがままには敵わないのかな)
そんな言葉が頭に浮かび、リィヤードは思わず破顔した。
「兄様?」
突然笑い出した相手を、ピアニィが戸惑ったように見上げる。

「ああ、まったく、君は」
隙だらけの腕を引いて、額に口付ける。ピアニィは反射的に目をつぶった。リィヤードが顔を離すと、おそるおそる目を開ける。ゆっくりと持ち上がるまつげが、小さな花のほころぶ様を思わせた。本物の花よりずっと美しく、愛らしい花。
この花は、一体誰のために咲くのだろう。
「アニィ。君が私のための花だったら嬉しいんだけど」
とても素直にそう思って、こちらを見上げる愛しい少女に微笑みかけた。ピアニィは、意味をつかみ損ね、言葉を失ったままだ。


リィヤードは、ピアニィの細い手を取った。無意識に強く握り締めそうになった自分に気づき、一度深く息を吐く。そうして改めて、壊さないようそっと包み込んだ。
「君の『お願い』は聞いたよ。これで、私の望みをかなえてくれるね?」
落ち着こうと意識しながらも、はやる気持ちを抑えきれず、声に必死さがにじんでしまう。彼 女があまりに綺麗なので、早く自分のものにしてしまいたくてじりじりする。もどかしい。

焦った様子のリィヤードに、ピアニィはわずかに目を見張り、――小さく笑って、――目のふちを赤くした。
「はい。約束ですものね」
二人の目と目が合う。
「結婚、しましょう」
ピアニィがはにかみながらそう言った瞬間、リィヤードは握っていた手を思い切り引き寄せて彼女を抱きしめた。


青の瞳も、柔らかな頬も、小さな唇も。
今目の前にある愛しいすべてを、何一つあきらめなくていいんだ。その実感に、無上の喜びがリィヤードの胸を満たした。











   
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